滋賀県長浜市の山間にある集落・大見(おおみ)。
16世帯、平均年齢は70歳オーバー。
2021年夏、私の限界集落暮らしが始まった。
古民家購入
築年数は100年、いや150年かも、と紹介された「伊香式住居」と呼ばれる古民家。
これを思いきって買ってしまった。
雪を落とすために角度のついた茅葺き屋根が特徴だ。
管理が楽にできるようトタンがかぶさっていて、正面には家紋のようなマークがついている。
目の前にある山の斜面には、そんな立派な古民家が立ち並ぶ。ただ、そのほとんどは空き家だ。
空き家と言っても、すぐにでも住めそうな家もあれば、すでに朽ちてしまって屋根が半分落ちている家もある。
「60代は若手」という世界で、私たち夫婦は当然、集落の最年少になった。
「なぜそんな場所に?」と聞かれれば「素敵なところだと思ったから」としか、今は言いようがない。
大見に私なりの「ユートピア」を感じたのだ。
限界集落とは…
人口の半分以上が65歳オーバーの集落のこと。特に、道路や森林の管理、神社やお寺の行事など、集落としての共同生活を維持することが限界に近づきつつある集落を指す。
総務省の調査では、2019年4月時点で全国に2万372か所ある。過疎地域にある6万3237集落のうち、限界集落が占める割合は32・2%で、2015年の前回調査から1割ほど増えた。
(参照:https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200327-OYT1T50270/)
ちょうどよい限界集落
家のすぐ脇には琵琶湖の水源・高時(たかとき)川が流れている。
夏はエメラルドグリーンが輝き、秋にかけてはアユが「うじゃうじゃ」遡上してくる渓流だ。
毎日変わる流れは、いつまででも眺めていられる。
川の対岸は、毎週末テントが並ぶキャンプ場。
集落の人は「あそこがなかったら、ここは寂しすぎるで」と言う。
たしかに、土曜日に子どもたちの声が聞こえてくるとホッとする。
集落内にある医王寺(いおうじ)には国の重要文化財になっている十一面観音様が祀られていて、大見の人が交代で世話役をしている。
大見神社の境内に入れば苔の絨毯の中にてっぺんの見えない杉の大木が当たり前のようにニョキニョキ立っていて、厳かで不思議な空気に包まれる。
大見で散歩していると「ずいぶん遠くまで来たな」という気分になるが、車で15分走ればJRの駅も高速道路のICもある。
もちろんスーパーマーケットやコンビニも。
それほど不便は感じない。
3人集まれば事件
大見にはいいものがたくさんあるが、人はいない。
ご近所の女性2人と立ち話をしていたら、通りかかったおじさんが笑いながら言っていた。
「どうしたんや。3人集まってたら、ここでは事件やで」
家を購入する前に、集落の人たちに初めて挨拶した時を思い出す。
ある意味「ネガティブキャンペーン」を受けた気もするが、あれは拒絶ではなく私を心底心配してのことだった。
「10年後、この集落があるかどうかわからない」というあの時の言葉を否定する材料は、まだ見つからない。
移住して4ヶ月、まずは先輩たちに大見がどんな集落だったのか、聞いてみようと思う。
私のユートピアを、これからサバイブしていくために。
(つづきは雑誌『サバイブユートピア創刊号』をご覧ください!)
コラム〈見えないものへの畏怖〉
私は強い信仰心を持ってこなかった人間だ。そんな私でさえも、人よりも自然が主役の土地での生活では、「見えないもの」への祈りの気持ちが生まれてきたような気がしている。
激しい雨が降り続き、あんなに綺麗な高時川が濁流に変わる時。地響きとともに落ちる雷に思わず耳を塞いだ時。家を揺らすほどの風が吹き抜け、大木から軽々と枝を落としていく時。ここでは、自分ではどうしようもない出来事が日常的に起こる。そんな時は、祈るしかない。
集落内で祀られている神様には、いつも新しい飲み物やお花が供えられている。一生懸命に手をあわせる姿も見かける。私が同じようにできるかわからないけれど、見えないものへの畏怖は確実に自分の中に根づき始めている。